『砂時計』

第十一章 『刹那の至福』




「ら〜ん、遊びに来たよー!」

「園子!いらっしゃい!」


若い女性に最近話題のシュークリームが入った有名店の小箱を掲げてやって来た園子を、工藤邸の玄関先で蘭が笑顔で迎える。


季節は秋になっていた。




居間に続く長い廊下を蘭が先導して園子を案内して行く。
「大変そうだね、お腹、ポンポコリン!今八ヶ月だっけ?」
「うん、これからもっと大っきくなるんだよ。」
園子の問いに、そっと腹部を撫でながら蘭は幸せそうに頬を染めて答えた。
「この中に赤ちゃんがいるって、何か不思議な感じだよね…」
園子がまじまじと蘭のお腹を見つめて呟く。
少し目を丸くして言う園子に蘭はクスクスと肩を揺らせた。

「ところで今日はダンナ様はどうしてるの?」
「書斎で調べ物してる。現場に行く事は減ったけど、どうも事件から頭が離れられないみたいだよ?」

園子を居間に通すと、蘭は「新一も呼んで来るから待ってて」と書斎に向かう。
幸せそうな親友の後姿を、園子は目を細めて見送った。



「新一、園子が来てるの。お茶にしよう?」
蘭は、新一がいる書斎のドアを軽くノックして言った。
「わかった…すぐ行くから先に行ってろ…」
ドアを隔てて新一の声が答える。


「うん、居間で待ってるね?」


「…ああ…」





胸の痛みに滴る冷や汗が、手をついたデスクに一滴落ちる。

 平静を装って答えたが、蘭に気付かれなかっただろうか…

新一は胸を掻き毟るように掴んで、激痛の波が引くのを待った。





「やー、蘭もすっかり奥様になっちゃったよねー。」
ハーブティーを用意している蘭を見ながら、園子は頬杖をついて言った。
「ヤダ、もうからかわないでよ。」
「誉めてんのよ。」

蘭が運んで来たハーブティーを一口啜った園子はまた口を開いた。
「クラスでもさ、蘭と新一君は絶対結婚する!ってみんな言ってたけど、こんなに早いなんて誰も思ってなかったよ。」
「…みんな元気?」
蘭は学校の友達の事を思い浮かべて、遠くを見つめるような眼差しで園子を見た。
「うん、みんな蘭にも新一君にも会いたがってるよ。イキナリ二人して学校辞めちゃったから心配もしたけど、蘭が新一君と結婚した事とか蘭のおめでたとか知ってみんな喜んでたし、女の子達は赤ちゃん早く見たいって。」
「そっかー…学校のみんなにも会いたいなー…」
「今度連れて来るよ!」

蘭と園子の会話が居間のドアの向こうから聞こえ、ドアノブに伸ばされた新一の手が止まる。



―わたし子供好きでしょ?だからね、米花女子短大に行って保育士の資格を取りたいと思ってるの。幼稚園の先生ってわたしに合ってると思わない?




いつだったか新一に蘭が笑顔で語ってくれた将来の夢。

短大処か、自分の所為で高校さえも満足に卒業させてあげる事もできなかった。
仲の良かったクラスメートとも会う事がなくなった。
学校でも人気者だった蘭なのに、蘭が大事にしていた日常も夢も、全て自分の為に諦めさせてしまった…


 …ごめんな?蘭…




「赤ちゃん生まれたら復学しないの?先生も良いって言ってくれてるんでしょ?」
「無理だよ…この子を育てながら高校に通うなんて。」
蘭は壊れそうな笑みを浮かべて言った。
「…それにね、わたし今凄く幸せなの。学校に行く事より新一と一緒にいられる事の方が大事なの。」

建前や強がりではない。
壊れそうな微笑でも、その真っ直ぐな瞳に迷いはなかった。

「蘭…わたし何でも協力するからね?遠慮しないで何でも言ってね?」
「有難う、園子。」
大好きな親友の嬉しい言葉に、蘭は笑って礼を言う。


新一はキュッと唇を結ぶと、二人の会話が聞こえなかったかのように装い、居間のドアノブを回した。

「新一!」
入ってきた新一の姿を認めると、蘭の顔がパアッと輝く。
園子はそれを見ると、小さく笑みを零した。

―もう…ホント負けるよ、新一君には。

認めるのは悔しいけれど、蘭にこの笑顔を与えられるのは新一だけ。


「丁度お茶の用意ができた処よ。新一はコーヒーでいいよね?」
「ああ、サンキュー。」
新一は笑顔で言う蘭の隣に腰を降ろした。


幸せそうに微笑むお腹の大きな妊婦の蘭と、その隣に当たり前のようにいる、大事そうに蘭を見つめる新一。
まるで絵に描いたような理想の夫婦像。

それがまた悔しくて嬉しくて…でも二人の事情を知ってしまっている園子には切なくも悲しくもあって…憎まれ口の一つでも言いたくもなる。

「蘭がママになるのはともかく、新一君がパパになるなんて冗談みたいだよねー。」
向かいに座った園子がからかうように笑うと、新一は「うっせーよ…」と口の中で文句を呟いて、コーヒーを一口啜る。
新一がコーヒーのカップをテーブルに置いた所で、廊下にある電話のコール音が聞こえた。
蘭が立ち上がろうとすると、新一はそれを制して「いいよ、オレが出るから。園子の相手してろよ。」と廊下へ出て行く。

「新一君のクセにいいダンナ様じゃな〜い?」
「クセにって何よー?新一いつも優しいよ?」
「お、惚気?新婚さんだもんね、あっついあっつい!」


園子が蘭をからかう声を背で聞きながら、新一は受話器を取った。
「ハイ、工藤です。」
『新ちゃん?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、ロスにいる新一の母、有希子の声だった。
「母さん…」

居間から蘭と園子の楽しそうな声が聞こえるが、お喋りに夢中でこちらの声は聞こえてはいないだろう。

『夕べ博士が来たわよ?志保さんの手術後の経過は良好らしいわ。蘭ちゃんの事は英理に任せて、あなたも早くロスにいらっしゃい。』
阿笠博士は志保の付き添いで、ロスに行っている。
志保の体調が安定するまで、ロスの工藤邸の近くにアパートを借りて暮らしていた。



「蘭、トイレ貸して?」
お茶の飲みすぎだろうか、園子が徐に立ち上がる。
「どうぞ?場所判る?」
「うん、蘭は座ってて?」
居間から出ると、園子の目に真剣な表情で受話器を持つ新一の姿が見えた。


「母さんの言いたい事は判ってる。でもせめて子供が生まれるまではこの家で蘭の傍にいてやりたいんだ…」
『新一。あなたの言いたい事もよく判ってるわ。でもね?』
「判ってるよ…手術の時期を遅らせれば遅らせるだけ成功率も下がる…そう言いたいんだろ?」
新一は溜息混じりに吐き捨てるように言う。
『…判ってるのなら一刻も早くこちらに来て手術を受けて頂戴…それが蘭ちゃんとあなた達の子供の為でもあるんだか…』

有希子が言い終わるか言い終わらないかの内に、新一は受話器を置いてしまった。


 判ってる。蘭の傍に居てやりたいんじゃなく、オレが蘭の傍にいたいだけ…
 蘭がオレを必要としているんじゃなくて、オレが蘭を必要としているんだよな…


まるで自分に呆れたように、大きく溜息を吐いたその時―――



―――ドクン!




心臓が激しく脈を打った。



「…くぅ…っ!!」

新一は激しい痛みが襲った左胸を右手で掻き毟るように鷲掴みにする。

 …ちくしょー、一日で二度目かよ…!

発作の間隔が日毎に短くなってきている。

「しっ、新一君!!」

園子は思わず新一に駆け寄った。

「…ぬ、盗み聴きかよ…趣味悪ぃぞ…」

恐らく有希子との遣り取りを聞かれていただろう。
会話に気を取られ、園子が死角にいた事に気付かないでいた自分に舌打ちをする。

「馬鹿!それ処じゃないでしょ?大丈夫なの?蘭呼ぼうか?」
園子は今にも倒れそうな新一の肩を支えた。

「…呼ぶな…!」

新一はなおも苦しそうな表情のまま、園子の言葉を制した。
「…少しすれば落ち着くから…アイツにだけは絶対言うな…!」

痛みに歪む端正な顔。
苦痛に浮かぶ汗。

園子はこんな苦しそうな新一を見るのは初めての事だった。
先程の新一の言葉を頭の中で反芻する。


―手術の時期を遅らせれば遅らせるだけ成功率も下がる…そう言いたいんだろ?


恐らく身重の蘭に心配をかけたくなくて黙っていたいのだろう。

それでも…


「…言うわよ…」
そう呟くと園子は、その後は一気に吐き出すように言う。

「アンタ本当に馬鹿じゃないの?黙ってる事が蘭の為だとか思ってるワケ?別に新一君がどうなろうとわたしの知ったことじゃないわよ!でもね、新一君が死んじゃったら蘭はどうなると思う?わたし、蘭の泣き顔は絶対に見たくないの。蘭はアンタと一緒にいられる事が幸せって言ってるのよ?蘭の幸せを奪うなんて、アンタにそんな事する権利ないんだから!!」

叫ぶように言いながら、園子の瞳も涙に濡れていた。

「…言ったでしょ?これ以上蘭を泣かせたらわたしが許さないって!とっととアメリカでもどこでも行って病気なんか治しちゃいなさいよ!馬鹿ー!」
園子は新一の肩に顔を埋めて泣き叫ぶ。
「オメーが泣くなよ…」
新一が半分呆れたように言うと、園子は顔を上げてキッと新一を睨んだ。
「これは悔し涙よ!一瞬でもアンタに負けたと思った自分が悔しいの!アンタがそんなんじゃ益々蘭を渡すワケにはいかないわよ!!」

新一は胸を押さえたまま呟くように言った。
「敵わねーな…園子には。」

「…新一…!」

突然聞こえた蘭の声に新一と園子が同時に振り返る。
涙で頬を濡らした蘭がそこに佇んでいた。

「…蘭。」

 聞かれちまったか…

あれだけ大声で園子が喚いたのだ。恐らく全部聞かれていた筈だ。
漸く痛みが引いてきて、新一は胸を掴んでいた手を降ろす。

パタパタとスリッパの音を立てて新一に走り寄った蘭はその身体を抱き締め、新一の胸に顔を埋めた。
「ごめんね、ごめんね?わたし本当は新一が時々苦しそうにしてたの知ってたの…でも新一と一緒に居たくて訊けなかった…そんなに悪くなってるなんて思ってなかったの…」
蘭は顔を上げて新一の目を見つめる。
「わたし、新一が帰って来るのこの子と待ってるから…すぐにでもロスに行って手術を受けて!」
ポロポロと頬を伝う涙をそのままに、蘭は新一に縋るような瞳で言った。

「お願い…」


新一は一つ溜息を吐くと、口元に笑みを浮かべて愛しいその身体をギュッと抱き締めた。

「園子…オレがいない間、蘭の事頼むな…?」
そう言って園子を見た。



 大親友の蘭をこの男に頼まれるのが悔しい。
 そんな事をこの男に頼まれなくても、蘭にはわたしがついてる。


「言われるまでもないわよ!ちゃんと治して来なかったら承知しないから!!」

悔しくて園子は語気を荒げて言った。

 「バーロ…ったりめーだろ?オレには幸運の女神がついてんだぜ?」
新一は応えるように挑戦的な微笑を浮かべる。

「最強のな。」

そう言って蘭を更に強く抱き締めた。


「蘭…愛してるよ…」

新一は、打って変わって柔らかい微笑を浮かべて蘭の耳元に囁きながら、柔らかい垂髪を撫でた。

「うん…わたしも…」

応えて蘭は新一をギュッと抱き締め返す。


「可能な限り毎日でも電話する…」
「うん…」
「絶対帰って来っから…」
「うん…待ってる…待ってるからね…」






その三日後、新一はこの家を後にした。
爽やかな秋晴れの遥か上空、新一を乗せた飛行機が太平洋を渡って行った…




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