『砂時計』

第十章 『この手を離さない』





翌日…昨夜の雨はまだ余韻を残し、音もなく静かに霧雨が舞っている。

昼過ぎに小五郎が車で蘭を迎えに来た。

智明は小五郎に蘭の病状を「貧血症状」と伝えた。
真実を伝えるのが医者の務めであろうが、この事は新一と蘭の口から小五郎に伝えるべきだとの判断の末だった。

車の後部席に座る蘭に付き添って、新一が一緒に乗り込む。
それが面白くはない小五郎だったが、智明の説明によると昨夜雨の中、貧血で動けなくなった蘭をこの新出医院に運び一晩中付き添っていてくれたという新一に、まさか「付いて来るな」とは言えない。
バックミラー越しに後部席を見ると、小五郎の前だからか二人は微妙な距離を置きながらも、心なしか寄り添っているようにも見えるのもまた面白くない。
小五郎は軽く舌打ちをし、ハンドルを握り直した。
蘭が新一を不安気な目で見ている。
新一は一つ小さく頷くと、小五郎からは見えない位置で、蘭の手を握り締めた。


終始無言のまま毛利探偵事務所の前に小五郎の運転する車が滑るように到着する。
事務所の横の階段を上がると、娘を心配した英理が三階の自宅で蘭を待っていた。


新一は、今日この場で小五郎と英理に告白するつもりでいた。


蘭が自分の子供を身篭っている事。
無事に出産できたとしても、その後自分は手術の為に日本を…蘭の元を離れなくてはいけない事―――


「夕べから蘭に付き添っててくれてたんだろ?悪かったな。茶でも飲んでいけ。」
自宅の玄関先で小五郎は、新一に家に上がるように勧めた。
「お茶は結構です。…それよりもおじさんとおばさんにお話があります。」
突然核心をつくような新一の言葉に、蘭は驚いた顔で新一を見た。
「新…」
新一を不安そうに見上げて彼の名前を呼びかけた蘭は、その真剣な眼差しに口を噤んでしまった。

「…立ち話もなんだから、上がって行きなさい。」

ただの勘でしかないが、蘭の態度から英理は新一が何か予想もつかない大変な話を始めるのではないかと、眉を顰めて言った。





茶を断った新一だが重い空気に耐えられない蘭は、人数分の茶を淹れてそれぞれの前に静かに置き、自分も新一の横に静かに座った。
「…話ってぇのは何だ?」
沈黙を破り、小五郎が口を開いた。
「…幾つかお二人に聞いて頂きたい事があるんです。」
蘭が再び新一を心配そうに見つめ、新一は蘭の手を引くと自分の膝の上でそっと握り締めた。


言わなければならない。
どんなに罵られようと例え殴られようと、蘭を離しはしない。離す訳にはいかない。
それを自分に言い聞かせるように、新一は握った蘭の手を更に強くギュッと握り直した。
蘭は縋るように自分を見ている。


新一は小五郎に向き直り、おもむろに口を開いた。




「…蘭は、オレの子供を身篭っています。」





一瞬の間。


思いもかけない突然の告白に、小五郎は言葉もなくテーブル越しに新一の胸倉をガッと掴んだ。
「お父さん!やめて!!」
蘭の制止の声が居間に響く。

新一の胸倉を掴んだ小五郎の手は怒りのあまりか震えている。
いつもは冷静な英理も、驚きに目を見開くばかりだった。

「…てめぇ!!」

吐き出すように出た小五郎の声も、低く怒りで震えている。
真っ直ぐに睨んでくる小五郎の目を見据えたまま新一は、静かに…それでもハッキリとした声で言葉を綴った。
「許して下さいとは言えません。でも、蘭もオレも本気です。オレは本気で蘭を愛してます。」
「貴様、自分が何言ってんのか判ってんのか!?大体オメーらまだ高校生だろうが!!何が愛だ!!10年早ぇんだよ!!」
小五郎は掴んだ新一の胸倉を更にグッと上の方に引き上げた。
「やめてお父さん!」
蘭が仲裁に入ろうとすると、英理が蘭の腕を掴んで止めた。
「…お母さん…」

「…蘭…本当なの…?あなた本当に新一君の子供を…?」
泣きそうな母の瞳…初めて見る涙に揺れる眼差し。
自分の事で母を泣かせた事などなかった。

これをもしも『親不孝』と呼ぶのなら、両親想いな蘭の生まれて初めての親不孝…


「お母さん…ごめんなさい…ごめんなさい、お母さん…」
ハラハラと蘭の瞳から落ちる透明な雫が英理の手を濡らしていく。
「…あなたはどうしたいの?」
自分の目を真っ直ぐに見て静かに訊ねる母の肩に、蘭は顔を埋めた。

「…欲しいの、新一とわたしの赤ちゃん…。生みたいの…!どんなにお父さんとお母さんに反対されても…!」


聞き分けの良い娘の…もしかしたら初めてかもしれない我侭だった。


「オレは許さねーぞ!今すぐ堕ろせ!!」
小五郎の言葉に蘭はビクッと身を竦めた。
「…や…いや!そんなの絶対に嫌っ!!わたし、どうしても新一の赤ちゃん生みたい!!絶対にいやぁっ!!」


蘭がイヤイヤをする子供のように大きく首を振って小五郎の言葉を否定する。

「…蘭…オメー…」
見た事もない娘の取り乱しように、小五郎は掴んでいた新一の胸倉を無意識に解放していた。
英理がたしなめる様に蘭を抱き締めた。
乱れた襟元を正して新一は、小五郎を真っ直ぐに見据える。
「…子供は堕ろしません。」
「まだ言うのか、テメー!」
つい新一の胸を放してしまっていた小五郎だったが、真っ直ぐに見てくる新一の目を睨み返しながら脅すように言う。
「自分が何をしたか判ってんのか!偉そうにぬかしやがって!!テメーなんかに大事な蘭をくれてやるもんか!!」
「何と言われようとオレは蘭を…オレ達の子供を諦めるつもりはありません。」
新一の譲らない言葉に、小五郎はチッと舌打ちをした。

「それともう一つ。」

続けて新一は言葉を綴った。
「…オレは、心臓に障害を持っています。このままの生活を続けていると…長くは生きられません…」

「…んだと…?」
小五郎が小さく呟いた。
「手術を受ければ完全に健康体に戻れますが、それが成功する確率は50%です。」

「…失敗すれば死ぬってぇのか…?」

小五郎の問い掛けに、新一は小さく頷いた。
死ぬかも知れないと言っている割に、その瞳に怯えの色は見られない。


「テメーは死ぬかも知れねーのに、蘭に子供を生ませる気なのか?」
小五郎の言いたい事は新一にも充分すぎる程に判る。
自分がもしも死んでしまったら、蘭は一人で子供を育てていかなくてはならない。
そんな苦労を蘭にさせるかも知れない男を…その男の子供を出産する事をどうして許せと言うのか。

それでも蘭は自分の子を望んでくれた。
自分を信じてくれた。「必ず生きて帰る」と―

「確かにオレ達は間違った道に進もうとしているかも知れません。今なら取り返しがつきます。…それでも、オレも蘭もこの道に進みたいんです。蘭の中に芽生えた命を消す事はできません。」


英理は蘭を抱き締めたまま、二人の遣り取りを静かに聞いていた。
「テメーは死ぬかも知れなくてもか?」
「…死ぬ訳にはいきません。オレは蘭とオレ達の子を幸せにしなきゃいけませんから。」
少しおどけているようにも見える表情。

これが自分の『死』に直面している人間の表情とは思えない。

「蘭の出産を見届けたら、オレはロスに手術を受けに行くつもりです。そして、必ず帰って来ます。蘭の元に。だからその間は蘭と子供の事をお二人にお願いすると思いますが、工藤の両親も協力してくれると思います。」
「…蘭も不幸な女だよ…てめぇに出会わなければ、こんなツライ目に遭わずに済んだのによ…」
小五郎が溜息混じりに呟く。

「それは違うよ…お父さん…」
英理の腕の中で、蘭は掠れた声で囁いた。

「…ツライなんて思ってない。新一がいればそれだけでいい。例え新一と幼馴染じゃなくても、わたしは新一に出会ったと思う…どんな出会い方をしてもわたしは新一に恋する運命だった…新一に恋をしなかったらわたしはわたしじゃなかったよ…」

そう言って蘭は綺麗に微笑った。
喜びも悲しみも超越した笑み。
我が子ながら小五郎はその微笑を浮かべた蘭を、天使みたいだと思った。

その微笑を見て小五郎は、諦めてしまったのか力のない笑みを零す。
「…蘭がテメーしかいねぇって言うんなら仕方ねぇ。…元々テメー以外の男に蘭をやるつもりはなかったからよ…」


遂にその言葉を言った。


「…許して頂けるんですか?」
「仕方ねーだろ、それしかねーってんなら。…ただし!」


小五郎はスッと立ち上がると、新一の腕を取って見事な一本背負いを決めた。

「おっ、お父さん!!」
突然の父の行動に、蘭は慌てる。

「これで勘弁してやらぁ。…なんだ、ちゃんと受身が出来るんじゃねーか。」
小五郎の言葉に、新一は背中を摩りながら苦笑いをした。
「あら、私の分も忘れちゃ困るわよ?新一君。」
後ろから英理の声が聞こえたと思うと、英理にも投げられた。

「だっ、大丈夫?新一!!」

続けざまに背負い投げを二本喰らった新一を心配して蘭が駆け寄った。
「大丈夫だって、おじさんも受身が出来てるって言ったろ?」

「この位させて貰って当然よ?大事な一人娘をこんな若い内に母親にさせるんですからね!」
英理の目には相変わらず涙が浮かんだままだった。
「蘭をこれ以上泣かせたら承知しねーぞ?」
小五郎も涙の滲んだ声で言う。


「約束します。必ず生きて帰って来ます。蘭を幸せにします。」






後日、蘭は新一から聞かされて苦笑した。
小五郎の背負い投げは手加減されたものだった。逆に英理の方が本気で投げてくれたようだと。

結局小五郎は新一の身体を心配してくれているらしかった。
英理が本気で投げたのは娘を想っての事。




数日後、二人は籍を入れて一緒に工藤邸に住む事となる。
新一が発つその日が来るまで――――




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