『砂時計』

第八章  『迷路の街に降る雨』






それから一ヶ月半…季節は春になっていた。
無事3年に進級した新一は、夏休み前には帝丹高校を退学する事に決めていた。

「新一君、学校辞めちゃうんだって?」
帰り際に園子が蘭に問い掛ける。
「うん…夏には向こうの病院に入院するから…こっちに帰って来たら大検受けて大学に行くつもりらしいよ。」

蘭は小さく溜息を吐いた。
その小さな仕草も、園子は見逃さない。
「蘭…?アンタさ、最近ちゃんと食べてる?顔色優れないし溜息多いよ?」
「そうかな…?平気だよ…?」
園子を心配させまいと、蘭は微笑ったつもりだったが、その笑顔には力がなく、園子を納得させるには不充分なものだった。
「蘭…無理しちゃ駄目だよ?蘭はいつも強いけど…だからって何でもすぐ一人で抱え込んじゃうんだから…」
「心配してくれてありがと、園子。でもホント、大丈夫だからね?」


 …ごめんね、園子…言えないよ…
 園子にこれ以上心配なんて掛けられない…

 …予定から一ヶ月も生理が遅れてる…なんて…



あの日から、新一と蘭は何度か肌を重ねていた。
蘭は新一の身体を心配するものの、今の所は一見する限り新一の身体は健康そのものだったし、蘭も新一と触れる行為に『新一はここに居る』と言う安心感を覚え、新一に抱かれるのが好きだった。
尤も、あの日以来は避妊具を使用してはいたのだが…


 でも…もしかしてその前のあの時に…
 …明日には病院に行って来よう…
 ここの所色々あったから、体調がおかしいだけなのかも知れないし…






「4週目に入った所ですね。」

 ああ…やっぱりそうだったんだ…

蘭は軽い目眩を覚えて目を閉じた。
驚いている自分を冷静に見ている自分が別にいた。



 新一とわたしの赤ちゃんがここにいる…



蘭は病院からの帰り道で、そっと腹部を撫でた。


 産みたい…絶対に。大好きな新一の赤ちゃんだもの。
 でも…新一はもう直ぐL.Aに行っちゃうのに…
 『必ず帰って来る』って言ってくれたけど、もしも…万が一の事があったら、この子は父親のいない子になっちゃう…


幼い頃に母親が家を出て行った蘭には、その寂しさは充分判っていた。
父親は愛情いっぱいに育ててくれたけど…その点では不服など全くないけど…
やはり同世代の子供が母親に甘えている姿を見るのは、幼い蘭には辛い事だった。


 この子には片親の寂しい想いをさせたくない…
 それに…新一に負担を掛けたくない…

 …どうしたらいいのかな…?



蘭は家に帰る事も、新一の元に行く事も出来ず、家とは逆の方へ歩き出した。





部屋でベッドを背もたれにして本を読んでいた新一は、耳に届く雨音に窓の外を見た。
もう真っ暗になっている空から、雨が落ちてきていた。
窓に寄ると、新一はまだ開け放してあったカーテンに手を掛けて、それを閉める。


 雨か…昼間は結構晴れてたのにな…


ベッドの所に戻り、飲みかけていた珈琲のカップを手に取った所で、家の電話が鳴った。
珈琲を一口啜って、部屋に置いてある子機を取る。

「はい、工藤です」
『おぅ、新一か?オレだ。』
受話器の向こうから聞こえてきた声は、蘭の父親、小五郎のものだった。
「おじさん?」
滅多にない小五郎からの電話に新一は困惑を隠した声で答えた。
「どうしたんですか?」
『蘭がまだ帰んねーんだが…まさかオメーの所にいやしねーだろうな?』
「…来てませんけど…?」
時計を見上げると午後10時を30分程過ぎている。
とても高校生が歩き回る時間ではない。

肌を重ねる行為を繰り返しても、小五郎に心配をさせない為、新一はいつも常識ある時間に蘭を家まで送っていた。
その事で小五郎に疑われた事はなかった。


『英理んトコにも鈴木のお嬢様んトコにも行ってねーみてぇだし、携帯も繋がらねーんだ…ったく蘭のヤツ何処に行っちまったんだ…?』
「オレ探して来ます!見つけたら直ぐに連絡入れますから!」


もどかしい思いで電話を切る。


―――嫌な予感。
自分の事よりも周りの事を先ず考える蘭が、両親にも親友にも…恋人である新一にも連絡を入れずに居なくなった。
携帯も繋がらない。

 …まさか事故とか…?

その可能性を否定するように首を振り、上着を羽織りかけた所で今度は携帯電話が新一を呼んだ。
液晶画面に表示された名前は園子。

「もしもしっ?」
噛み付くように電話に答える。
『新一君?蘭そこにいるの?』
園子は小五郎からの電話で新一の元に蘭がいるものだと思っていたらしく、声にはそれ程焦った様子がない。
「…いねーよ…今探しに行くところだ。」
電話の向こうで園子が息を飲む様子が判った。
『探しに…って…新一君も知らないの?蘭が何処にいるか…』
「判んねー…」
力ない新一の声を聞いて、一瞬園子が黙る。
『………許さないから…』
少しの沈黙の後、震えるような園子の呟きが聞こえた。
『どうせ新一君絡みなんでしょ!?蘭に何かあったら、わたしアンタを一生許さないから!!』

叫ぶようにそう言うと、園子の電話は一方的に切れてしまった。


 オレも許せねーよ…自分で自分が…


新一は上着を着ると玄関に向かう。
傘を手に取ると、玄関から飛び出した。
園子に罵られても、そんな事は気にしていられない。
今は蘭の事が一番だった。






蘭は新一の家の近くの公園まで来ていたが、どうしても新一の元に行く事ができずに雨で濡れたベンチに座っていた。
激しくなった雨が、傘を持たない蘭の身体を容赦なく叩く。
春とは言え、雨は冷たく蘭の身体から体温を奪っていく。


 …ごめんね…新一とわたしの赤ちゃん…
 あなたに凄く会いたいけど…産んであげたいけど…
 園子はわたしの事『強い』なんて言うけど、わたしそんなに強くなんてない…
 一人であなたを産んで育てていける自信なんてないよ…


蘭は止め処なく雨が落ちてくる黒い空を見上げる。



 身体が冷え切るまでこうしてたら…あなたを苦しませずに逝かせてあげる事ができるのかな…?








「らーんっ!」
雨の降る街中を、新一は声の限りに蘭を呼ぶ。
もう夜11時を過ぎている。
30分も走り回って蘭を探していた新一の呼吸は乱れ、膝に手をつき大きく肩で息を整えた。
チリ…と心臓に走る痛み。
右手でそれを追い遣るように、その上の服をギュッと掴む。


 …ったく何処行ったんだ?アイツ…
 この付近で事故なんてなかったみてーだし…それとも他に何か帰れない理由が…?

 何があったんだ…?蘭…
 頼むから無事でいろよ…!

「くそ…っ!」


雨の街中に新一の呟きが吸い込まれていった…―――







蘭は漸く公園のベンチから立ち上がり、新一には会わずに自宅の方へ歩いていた。



 やっぱり帰ろう…
 この子を殺すなんてできっこないじゃない…新一とわたしの大事な赤ちゃんなんだもん…
 これからどうしたらいいのか、もっと落ち着いて考えなくちゃ…
 人知れずこっそりと産んで育てるのも良いかも知れないね。
 あ、でもわたしには貯金なんてないから、やっぱりお父さんとお母さんに助けて貰わなくちゃ駄目なのかな?
 お父さん、どんな顔するかなぁ?

蘭は自嘲気味にクスクスと笑う。



パシャ…と水音に振り返ると、傘を持った新一が息を弾ませて立っていた。
「…蘭…」
その様子に、蘭は走り回って自分を探してくれた事が判った。


「新い…」


その名前は最後まで呼べなかった。
新一の持っていた傘が路上に落ちる。

蘭の冷えた身体は、新一の腕の中にあった。


抱き締められている事を理解する。
強く。強く抱き締められている。



「バーロ…!これ以上オレの寿命縮める気かよ…!」
搾り出すように聞こえた新一の声が泣きそうに震えている。


抱き締めた蘭の身体が冷えてしまっている事に気付いた新一は、その身体を離すと自分の上着を脱いで急いで蘭の肩に掛けた。
「とにかくこれ着ろ、おじさんも園子もすげぇ心配してる…」
「…新一…」
大好きな名前を呼びかけた蘭の意識が遠くなっていく。
「…ごめん…ごめんね…?」
蘭の身体が前に傾いた。


「蘭っ?」



蘭の冷え切った身体が新一の腕の中に倒れた。






救急車を呼ぶよりここの方が早い。
徒歩でも5分と掛からない場所にある新出医院に新一は意識のない蘭を連れて行った。
病室を温かくして、今は智明の助手を務めるひかるが意識のない蘭を着替えさせてくれた。
智明の診察が終わって、廊下で待っていた新一にひかるが声を掛ける。
「工藤君…入っても大丈夫よ?」
ひかるに言われ、蘭の病室に入る。
蘭はまだ目を覚まさない。
智明とひかるは新一に気を遣って、蘭が目を覚まさないようにそっと病室を出た。
それを確認して、新一はベッドの横にある椅子に座り、眠っている蘭の顔を見つめる。


青ざめた顔…
普段は血色が良い桜色の唇も頬も…血の気を失せてしまって痛々しく見える。


 オレの所為なのか…?蘭…
 一体オメーは…何を抱え込んでしまっているんだ…?
 少しはオレの事信用して話してくれよ…なぁ、蘭…?


色を失くした蘭の頬にそっと新一は手を触れた。





暫くすると、扉をノックする音が聞こえ、智明が顔を覗かせる。
「…工藤君…ちょっと良いかな?」
「あ…はい…」

椅子から立ち上がった新一は、蘭に気を向けつつも部屋を後にして廊下に出た。
「救急指定じゃないのに無理を言ってすみませんでした…」
智明と向き合うと、新一は頭を軽く下げた。
「いえ…それよりも…」
智明が何か話づらい事でもあるかのように言いよどんだ。


「…相手はキミだと信じて言います。僕は専門外だからちゃんと調べてみないとハッキリとは判りませんが…もしかしたら、蘭さん……」


そこまで言って智明が言葉を切ると、新一の脳裏に「まさか」と言う考えが過ぎった。




「…蘭さん、妊娠しているかも知れません。」








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